生きづらさを解消する 自分との闘いからの解放

 先日、仕事を終えてオフィスから自宅へのいつもの帰途を車で走っている時のことです。

広い道に右折して入らないといけない箇所があるのですが、高架下のためにどの辺りに停車して信号が変わるまで待機するのかが少々難しい場所があります。ただ、もう長年通い慣れた道なので、対向車も後ろからの車も何とか通れる場所に停車して信号を待っていました。風の心地よい気候だったので、窓を全開にしていました。

 その時、ふいに後ろから走ってきた車に抜かされ、男性が大声で私に罵声を浴びせて通り過ぎました。何といったのかは聞き取れませんでした。その声を聞いた瞬間、私の身体にショックが走ったのを明らかに感じました。通り過ぎた後、私は私に、「びっくりした。怖かった。でももう大丈夫。もう終わったことだから。」と、言い聞かせたのです。自分の身体が罵声を浴びせられることでそんな反応をしているとリアルタイムで自分自身で気が付いたのは人生で初めてだったかもしれません。それは、最近不安や恐怖に対しての身体症状に気を付けて見るように心掛けるようにした成果だと思います。自分の身体反応に気が付いて、自分に声をかけることも、思いつく限り初めての体験でした。

 不思議と、そう気が付いて自分に話しかけた後、すっとその高揚した神経は収まって、また平常心に戻りました。また心地よい風を感じるゆとりも取り戻し、家路のドライブに戻ることができました。今起こった不快で不安な出来事にそれ以上こだわることもありませんでした。

 なぜこのエピソードを冒頭に挙げたのか。それはまさにこのことが、私にとっても誰にとっても、精神的にとても大切なプロセスを象徴していると思うからです。

 人が危険を感じると、扁桃体が興奮して闘争逃走本能という交感神経優位のモードに切り替わります。「火事場の馬鹿力」という言葉がありますが、実際に危機的な状況では普段以上の運動能力が発揮されることもあります。でもそのモードは「命の危険を回避する」という一点に全能力をかけている状態なので、身体も心もとても消耗します。また、扁桃体優位の時はリラックスして冷静にものを考えたり優しい気持ちになったり、ゆっくりと睡眠を取ったり美味しいものを味わったり、そのような人間らしいゆとりを持つことが難しくなります。

 日本社会の場合、実際に命の危険に晒されることは幸いにもまれですが、扁桃体は本当の命の危険に晒された場合にのみ反応するとは限りません。特に子どもの場合、年齢が小さいほど些細なことにも怯えやすいものです。そのような時、身近な信頼のできる人物が、まず子どもの恐怖に気が付いて、「怖かったね。」「でももう大丈夫。」と慰めてくれることによって「有事のモード」は「平時のモード」に速やかに収まっていきます。そのような体験を自分の心に取り入れられるほど、充分体験できた子どもは、のちに自分自身で自分の高揚を鎮める能力を身に付けていきます。自分でその状態をうまく扱える人は、最近の言葉で「自己肯定感」が高いことになります。

 もし、そのような人物が不幸にも身近にいてくれない場合、あるいは子どもの感じる身体的精神的不安が気づかれない場合、その子は自分自身で自分を守らないといけないと(無意識に)感じます。これは常に扁桃体が不安と戦っている状態ですので、それが軽微なものでも長期間続くと精神的身体的に負担がかかった状態になってしまいます。

 また、こうした積み重ねによってできてしまった、誰も理解して守ってくれない、自分自身で自分を守るしかないという無意識の信念は、その後の対人関係にもさまざまな障害となり、自分でも分からない生きづらさの原因となっていることが多いものです。

 そのような状態の人の心の内面は、大抵の場合、弱い自分を過度に責める自己と、そのような厳しい自己から恐れられ嫌われた自分、つまり本来は怯えた気持ちを理解して慰められたかった自分とに分かれて、うまく調和が取れず苦しみます。

 人によってその心の中の自己の不和のあり方は千差万別ですが、まず大事なことは自分の心の中に異なる本能から派生した対立が起こっていることを感覚的に理解して整理することで、どの自分自身をも恥じたり恐れたりせずに共感的に理解することが、解決の糸口と私は考えています。

 それをシンプルに例えると、最初の私の体験的エピソードのように、自分の感覚に鋭敏になることや、それを認めた上で共感的に受け入れることでもあると思います。

 それは長年自分自身が傷ついたままで生きてきた人にとっては長く困難で、また助けが必要な作業ではありますが、生きづらさが解消されることは不可能ではありません。