初期の不安が収まり、家庭での生活や友人と会うことにはそれほど抵抗がなくなってくる時期に入ると、本人の中に葛藤が生まれてきます。「学校(会社)に行きたい。でも行くとまた以前のようになってしまうのでは?」はた目から見るとダラダラと生活しているように見えますが、本人はその葛藤の間を行ったり来たりしながら結構エネルギーを使っているものです。
今はネット社会になりましたので、大抵のお子さんはPCか携帯を所持しています。家に引きこもっているお子さんでも、よく聞いてみるとネットを通して友人とやり取りをしていることが多いものです。
このような落ち着きを取り戻した時期に、やっとカウンセラーも本人との出会いを果たすことができます。
この時期の思春期のお子さんの変化は、目覚ましいものがあります。この時期に至る前に、保護者の方に嫌々連れてこられた時には、目を伏せてほとんど会話を交わさなかった人も、見違えるように話をしたがります。その人の趣味だったり、母国の外交問題、教育問題、異性への関心、将来の夢、復学への不安、そして最後に家族と自分自身についての思いや悩みに至ります。
思春期のお子さんは、回復期に、「僕は(私は)このような存在で、世界をこう見ているんだ。」と宣言するようなものだと私は思っています。それまでの彼らは、何となく不安だからみんなと同じにしたいという思いが強い子たちですが、回復期にはまるで、「僕(私)は僕で、人とは別の存在だ!」と勇気を奮い立たせて、堰を切ったように言葉があふれてくるようです。
大人から見ると些細な趣味や偏った政治的意見のように感じられても、その子が自分で初めて選んだ「自分」を聞かせてもらっていると思うと、聞いているこちらも感動します。引きこもって無表情な子供の陰に、こんなはっきりした個性が隠れていたのかと、いつも驚きます。
中年期の課題が、これまでの人生で生きてこなかった部分を見つめなおすことだとすると、思春期、青年期の課題は、親や「みんな」とは別の存在である「自分」とは何者かということを定義づけることだと思うのです。
不思議なことに、自分を語る言葉があふれてゆくだけで、次第にその子は活力を取り戻し、自分のペースで再び社会に戻ってゆく勇気を見出してゆきます。そうして、いつの間にか、時には唐突に、不登校の子たちはカウンセラーの元から旅立ってゆきます。
思春期の人のカウンセリングは、「話しているうちにいつの間にか元気になっていった。」という印象で、きちんと問題を解決して終結に至ることは少ないのです。その人が何者かを、雑談のような形で聞き取るだけで、その人がその人であることを手助けしているからです。
私は、思春期の人のカウンセリングのお別れは、カウンセラーのほうが寂しい思いをするものだと思っています。それは、子供が親の元から旅立つことに似ています。子供にはまだ長い未来があり、もちろんたくさんの可能性もあって、それに期待を寄せることができるので、喪失感に直面せずに生きてゆけますが、年取ったものはそれを祝福しながらも、去って行った人を懐かしみながら喪失感を味わうのが、本来の人間の生き方だと思うからです。