人の脳の発達と性格の成り立ちについて 2 アタッチメント(愛着)と内在化

 前のブログで書いたように、人間の脳の感情的な部分は扁桃体由来の不安→アタッチメント→取り入れ→内在化の順に発達していき、最終的にバランスの取れた健全な機能を獲得していきます。

  逆に言うと扁桃体由来の不安とアタッチメントまでは動物的、本能的なシステムで、それゆえに人の心に強力な影響を及ぼし、それに逆らったり無視をすることはほとんど不可能です。それが阻害されると命の危険を感じるのです。

 アタッチメントは日本語では「愛着」と訳されますが、実際には英語の「接続すること」「取り付けること」のほうがしっくりくるような生物的システムです。養育者のそばに行き、五感を使って養育者を自分の心にインストールすることを求めるようなイメージです。

 臨床経験から感じるのは、この最初の本能的な部分で起こるトラブルが、一番厄介な問題を引き起こすらしいということです。一番典型的な例は複雑性PTSDや発達性トラウマと呼ばれる状態ですが、この場合アタッチメント対象になる養育者が同時に脅威を引き起こす対象にもなっているので、養育者をインストールしてしまうと脅威もまた強く喚起されてしまうのです。親密になりたい欲求が同時に不安や脅威を引き起こすことになってしまうので、この二つの衝動はどちらも動物的な本能から出てくるものなので抗いがたく、人がそれを感じると激しく混乱して苦痛を感じます。その混乱と苦痛は時にはその人を圧倒するぐらいに、身体的な激しい痛みにも似るぐらいに耐えられないものです。

ただ、このような発達のつまずきを持ちながらも人の成長する力は大きいので、大多数の人はそれを何らかの方法で補いながら成長していくものです。例えば情緒的な触れ合いを避けて、親密にならないように(無意識に)生きる人もいるでしょうし、アタッチメント対象に依存するのでなく、自分の都合のいい時に都合のいいように利用することで本当の親密さを避けようとすることもあります。方法はいろいろありますが、そのいずれにも言えるのは、そこにつまずくとその先の取り入れ→内在化が不完全になってしまい、その場合不安に弱くなったり親密さを避けたり、不安定な部分が大人になっても残ってしまいます。

内在化とは、分かりやすく言えば「いないいないばあ」の遊びを子どもが喜ぶように、姿が見えないアタッチメント対象が、見えなくなっても存在することを信じられるようになることです。この段階まで行くと、養育者の良い面と悪い面が同時に一人の養育者として認知されるようになっていき、不在の養育者や自分を満足させてもらえなかった養育者も、全体的に「ほどほどの」養育者である限りは受け入れて内在化できるようになってきます。

この内在化に至ることによって、初めて一人でいられる能力と他者と親密になる能力の両方を身に着けて、どちらも大きな不安なく楽しめるようになれるのです。人が生きていく上でこれを達成することはとても大切な要素なのですが、その前の段階での混乱状態を持ち越したままでは内在化に支障をきたすことになります。

メラニー・クラインの対象関係論では、この内在化以前の状態を「P-Sポジジョン」、内在化以降の状態を「抑うつボジション」と呼びます。脳科学の知識のない時代に、臨床像のみでそのような状態を見分け、理論化したクラインはやはり天才だったと感心します。

内在化以前の状態と内在化以降の状態は、ある程度経験を積んだセラピストには直感的に判断できます。とても大雑把に言うと前者の状態は古典的には「ボーダーラインパーソナリティ障害」と呼ばれるような縦分裂した状態で、良い対象と悪い対象がはっきりと分かれて、しかもそれが頻繁に変化し、不安に弱く、人への共感性を持つ余裕がなかったりする状態です。内在化以降では、たとえ自己評価が低いとしても、自己像がある程度安定し、他者に対する見方も激しく動揺することがなく、セラピストもそれほど不安感を持つことなくセッションを続けることができる人たちです。

ただこれはクラインも「ポジション」と呼んだように、ある時には安定した状態を保てた人も、大きな不安に直面すると退行する場合がしばしばあります。思春期まで、あるいは成人期まで精神的な問題が一度も表面化しなかった場合にも、ある時期にあるストレスが引き金となって未解決の問題がある部分まで退行してしまい、内在化以前の由来の精神的な問題が出現するケースも決してまれではありません。

 ではなぜこんなことが起こるのでしょうか?そしてそれに対する解決策はあるのでしょうか?そういう疑問が当然湧いてくると思います。それらについてはまた次回以降にゆっくりお話していきたいと思います。