思春期心性と不登校 2

前回、思春期は劇的な再編成の時期、と述べましたが、つまりそれは「自分の意志決定」を獲得するために親との距離を取らないといけない時期ということです。

 思春期自体は性の目覚めを体験して身体的に大人になる時期ですが、それは無意識的なエネルギー、精神分析用語でいうリビドーの大きな変化をもたらします。エネルギーはイライラ、怒り、攻撃性にもつながりますが、反面、意志や創造性や生きる意欲そのものの源泉にも変わります。つまり生かしようによってとても豊かなものに変わっていく力なのですが、それを生かすにはそれまで作り上げられた基礎部分がとても大切になってきます。つまり幼児期、児童期を通して自我が成長しているかどうかが大切になってくるのです。

 思春期に不登校になる子の生育歴の聞き取りをすると、幼児期の反抗期がなかった場合と極端にひどかった場合の二通りがよくありますが、前者が大部分のようです。子どもにとって親に反抗することは大変な勇気のいる行動なのですが、それは親に見捨てられたら文字通り生きていけない哺乳類にとって本能的な恐怖を伴うからです。

 赤ちゃんは自分の怒りを意識できず、怒ると相手が(世界が)自分に向けて攻撃してくるように感じるために、不安におびえることになります。養育者とのやり取りの中でその不安を和らげながら怒りを相手のものでなく自分のものとして体験することができて、はじめてあの「イヤ!」が発せられるのです。つまり「イヤ!」はそれを言っても自分は見捨てられることはない、受け入れられると感じることができて初めて言えるのです。そしてそれを現実に言うことで、それを言っても実際に大丈夫だと安心でき、それからもっと進歩すると、何が「イヤ」で何が「いい」のか、自分は何を望んでいてお母さん(お父さん)は何を望んでいるのか、お母さんの(お父さんの)求めることを受け入れるべきか拒否すべきか考えることができるようになる基礎ができるのです。

 幼児期にそれを体験しなかったということは、言い換えるとまだお母さん(お父さん)を試してみたことがないということです。なぜ試せなかったのか。お母さんの望むものが自分の望むものと違うと思わなかった場合もありますし、怒ることに不安が強すぎて怒りを見ないようにした場合もあるでしょう。

 そしてこの幼児期の反抗期はちょうど思春期の反抗期の予防接種のようなものと考えるとよいでしょう。幼児期に「イヤ」を言え、そしてそれを適切に扱ってもらえた子供は(つまり周囲がそれに過度に振り回されず、その中の思いをくみ取ってもらい、意志の出し方を覚えていけた子は)思春期の反抗期もうまく体験できる可能性が高まります。自分が少々言い過ぎても親は動揺せずに受け入れてもらえると感じるならば、一時的に怒りをぶつけることがあってもうまく対処できるようになっていきます。

 半面、不登校になった子の生育歴を聞いていくと、怒りの感情を上手に表現できなかった(あるいは表現すること自体がほとんどなかった)ことが多いのですが、これは本当に怒らないのでなく、怒ることに無意識に不安を感じているからと受け取るのが正しいのだと思います。本来未熟なはずの子どもが怒りや欲求不満を感じないはずがないからです。

 不登校は内向きの反抗期と私が言うのはこういった意味です。怒りや自己主張を外に出すための練習ができていないために思春期に不安が高まってしまうからです。