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講演会原稿「思春期の心性」8

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 非常に具体的に語りましたが、今語ったC君のケースは実際の一つのケースではありません。ですが私が20数年不登校に関わった中での典型的なエピソードを組み込んで創作したケースですので、自分でもリアルに仕上がっていると思います。

 ここで強調したいのは、実際の不登校を見ていくと多くがC君の家庭のようにごくありふれた日本の一般的な家庭なのです。決して特別ではありません。

 さてC君の問題を先に述べた「アタッチメント形成」「イヤイヤ期」エディプス期」から見て考えてみましょう。

 C君は特に幼児期や小学校での問題行動もなく、アタッチメント形成に大きな不安定要素はありません。つまりお母さんのそばにいることで一定の安心感を持つことのできる関係ができているようです。

 でもイヤイヤ期がなかったということは、お母さんに逆らって自分の意志を出そうとすることに不安が強かったのかもしれません。あるいはお母さんの性格が相手を怒らせないように気を遣う人のようですので、C君もお母さんに合わせてお母さんに怒らない、怒らせないように子供ながらに気を遣ったのかもしれません。

 イヤイヤ期をうまく通り過ぎなかったら次のエディプス期でお父さんに反発することも困難なのですが、、その上C君の場合、お母さんはお子さんたちとの関係が強く、お父さんとお母さんとの関係に割って入るというエディプス期の三角関係もうまく成り立たなかったのだと思います。そうすると必然的に人と競い合ったり自己主張することが苦手で人に気を遣う性格になります。また必要以上にお父さんを怖がり、あるいは敬遠しがちにもなりやすいものです。

 このような幼児期の課題をやり残したまま思春期に突入したC君は、たぶんお父さんお母さん、そして自分自身の性格についていろいろな気持ちが芽生えてきたことでしょう。中学生になり、新しい大きな集団に入り、厳しい校則や部活動、級友たちとの関係を体験したC君は、反発することも自己主張することも思うようにできず、不安が一気に身体症状になって出てきてしまいます。それが頭痛、腹痛で、それがきっかけで不登校に突入します。

 話がいったん変わりますが、C君のような家庭が珍しくない中でどうしてC君が不登校になったのでしょう。

 C君のようにお父さんは子育てに積極的に関わらず、お母さんは人に気を遣う女性という組み合わせは珍しくありません。日本ではむしろ一般的ともいえるのではないでしょうか?またそのような家庭は昔からたくさんありましたが、なぜ昔はそれほど不登校が目立たなかったのでしょうか?

 ここにもうひとつの思春期の特性があります。小学校中学年ぐらいから「ギャングエイジ」「チャムシップ」とも呼ばれる、子ども同士の集団の絆が強くなる時期があります。大人から離れた世界で子供同士でグループを作り、その中で疑似家族体験をしていきます。昔は近所のきずなも強く、兄弟も多かったことからこの子供同士の集団には年代の違う子どもが集まり、その中で競い合いや自己主張をするチャンスにも恵まれ、同時に年長の子どもがお父さん役割を果たすこともありましたが、現代では子どもの数も減り、同級生との付き合いがほとんどになってきています。その上遊び方も変化し、競い合いやぶつかり合いも減ってきています。同質な仲間とだけの表面的なつながりでは十分な疑似家族体験にはなりません。

 ちなみに子ども同士の「チャム」や「ギャングエイジ」のようなグループで疑似家族体験をすることはC君のような思春期危機を回避するひとつの方法なのですが、そこには危険もあります。そのグループが非行グループであったりいじめが頻繁に起きるような問題のあるグループの場合、その影響を強く受けるからです。

   続く

 

講演会原稿 思春期の心性4

 この時期の後もうひとつ子どもにとって大切な課題の時期があります。それはエディプスコンプレックスといって、お聞きになったことがあるかもしれませんが、フロイトが提唱した概念で、無意識的に男の子がお父さんと競争してお母さんをお父さんから取ろうとし、女の子がお母さんと競争してお父さんをお母さんから取ろうとするという時期です。

 これはどういう意味があるのかと言いますと、子どもが自分の性別の違いを認識するとともに、お母さんと自分の世界、あるいはお父さんと自分の世界という一対一の関係から脱して、自分にとってもう一人の重要な人物を意識する時期です。

 その時子どもはどちらか一人を独占しようと試みますが、最終的にはどちらも自分にとって大切な存在で、しかもその二人はパートナーだということを納得しなくてはいけなくなります。そして誰かを独占するのではなく、三人以上の関係でお互いに張り合ったり大切にしたりということが自然にできてくると、それから先の人生で異なる個性の人とうまくやっていったり集団の中で自分の意見を主張したりすることにあまり困難を感じなくなってきます。また、異性のパートナーと助け合って生きていきたいという将来の願望の基礎にもなります。

 やっとここまでで幼児期に達成する目標が出そろいました。エディプス期が大体4歳ぐらいですが、そこから先の学童期は潜伏期といって、無意識のレベルでは比較的穏やかな時期として過ごすことができます。もちろんその時期にも登校渋りや問題行動が出てくる場合もありますが、それは大抵、一つ目のアタッチメント形成が不完全なためがほとんどで、環境の調整が整うと比較的早く収まります。

 そしていよいよ最初にお話した思春期に突入します。思春期を迎えると子供の無意識はそれまでと一変して激しく動き出します。思春期の始まりはその子によって異なりますが、女の子は早ければ小4から小5、初潮の時期ですね。男の子は小6から中学に入ってからでしょうか。

 最初にお話したように、第二次性徴が始まるあたりになると、親から距離を取り、独立したくなるという生物としての本能が動き出します。すると普通、イライラしたり親の言葉に反発したりします。特に男の子は学校での出来事をあまり話したがらなくなります。女の子もお父さんに対してよそよそしくなり、お父さんを悲しませたりします。

この時期、子ども自身もこれまでと違うこころと身体の変化を体験するために、とても不安定で不安な思いをしています。自分自身のそのような変化、周囲の同級生の変化を自覚して、これまでのようには恥ずかしくて親に甘えられないと感じるのですが、反面、不安な時には親しい人に近づいて安心感を得たい気持ちとの板挟みになります。「近づきたいけれど離れたい」これが思春期の一番の特徴です。

 ちょうどその時期に中学に入学して大きな集団に入り、部活や試験、塾というような未知の不安な体験に挑戦しなければならなくなります。これは思春期を迎えた子どもにとって大変なストレスです。

 そんなわけで小学生の不登校よりも中学生の不登校の数の方がぐっと増えることにもなるのです。

講演会原稿「思春期の心性」2

『人が赤ん坊として生まれた直後はご存知のように24時間誰かに面倒を見てもらわなければ生きていけません。人以外の哺乳類はそれほど無力ではないのですが、例えば猿の赤ちゃんは生まれた直後からお母さんにしがみつくことができます。でも人間の赤ちゃんは生まれた直後かなり無力な存在で、24時間誰かに保護され、養育されなければ生きていけませんね。

 その時点ではただ不快になると泣くだけです。でもしばらくたつと自分が泣くことでsおのふかいかんをとってもらうように相手をコントロールできると気が付くようになります。例えばお腹が空いた、あるいは寂しい、おむつが濡れて不快だなどという時に泣くとそれを和らげてくれることに気が付くと、次第に一番自分を世話してくれる人、多くはお母さんなのですが、その人を他の人とは違う存在だと認識でき、その人に向かってほほえんだり泣いたり声を発したりします。お母さんに要求すると答えてくれることを覚えるのです。

 お母さんが自分の辛さを和らげてくれる。これは赤ちゃんが最初に学ぶことで、その学びがやがてその赤ちゃんの将来を通じての人生の基本になるのです。今の時代にお母さんといいきるのは語弊があるかもしれません。お父さんでもお祖母さんでも、あるいは保育士さんでもいいのですが、養育者と子どもとのつながり、つまり不安になった時に親しい人に近づいてなだめてもらうことを期待する気持ちが育つことがその人の将来にとても大切な要素になるのです。このつながりを専門用語で愛着形成、アタッチメント形成といい、この理論をアタッチメント理論、愛着理論といいます。これについては近年、日本でも海外でも多くの専門的な研究が進められていますが、詳しい内容についてはここでは省きます。

 このようなアタッチメント形成は人間だけでなく多くの哺乳類、鳥類にも見られます。赤ちゃんが世話をしてくれるお母さんを見分け、不安な時、つまり危険を察知した時は本能的にお母さんに近づく。これは生きるための動物の本能です。人もこの本能を持っていますので、それが正常に働くことで本能的な不安を和らげて未知の物事に挑戦する勇気が出てくるのです。』

 

 次回は次の発達段階、イヤイヤ期のご説明をします。

講演会原稿 「思春期の心性」1

 先日、名古屋市の生涯学習センターで思春期の心性についての講演をしましたので、長くなり、また過去ブログと重複しますが、何度かに分けて全文を掲載いたします。

 

 『思春期という時期が人生にとって大切な時期、節目となる時期だということは古今東西言われてきたことですが、その基本に何があるか、それはとてもシンプルに生物学的な変化を遂げる時期だということがあります。生殖可能な肉体に身体が成長を遂げる時期です。動物では生殖可能な年齢に達すると親から離れて自立していきます。そうしないと種が保てないからですが、人は思春期になってもすぐには親元から自立できません。さらに成人になり社会的に自立できるまでに10年前後を要するのです。このギャップが様々な葛藤につながります。思春期が人にとって大変なのは、この時期に自立不可能だということとつながっています。

 今日来ていただいたみなさんはどのようなきっかけでいらっしゃったのでしょうか?思春期の心に関心を持ったきっかけが何かあるのでは?と思います。身近なお子さんが思春期の入り口に入り、何かの変化が現れたのかもしれません。あるいはこれから思春期を迎えるおこさんがいらっしゃるのでその準備のためでしょうか?思春期のお子さんの気持ちを知り、その言動にどう対応すればいいのか迷っていらっしゃるのかもしれません。

 大人になった私たちは皆、思春期を通り過ぎているのですが、不思議なことに大人になるとその記憶があまり残らないのです。「何かわからないけれどイライラしていた。」「つまらないことで親に突っかかっていた。」

 ごく普通の人はこんな風に思春期について表現することが多いのです。何か一種の解離、解離というのは軽い記憶喪失のような者ですが、そういう意識の断裂が自然にあるのかもしれません。そういう不思議な体験が思春期にはあるようです。

 この、思春期の心に何が起こるかを説明する前に、思春期までに人が到達すべき発達を大雑把にご説明したいと思います。』

 

 大変な長文になってしまいますので、いくつかに区切ってアップしたいと思います。次回より思春期までに到達すべき発達として「アタッチメント」「イヤイヤ期」「エディプス期」の三つを挙げ、ひとつづつ説明していきます。

みんなと同じになりたい 2

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 私がカウンセリングで出会う人たちの多くが「みんなと同じになりたい。」と訴えるという話は前回しました。私はこの言葉を「お母さんと同じになりたい。」という意味と解釈しました。

 子どもが最初に憧れ、同一化する人物は一番身近な養育者であり、それは男の子でも女の子でも大抵「お母さん」に当たるという意味で、「お母さんと同じになりたい」という願望は誰にでも無意識に存在しているものだと思います。ですが、成長の過程で、憧れたり同一化したりする人物は、だんだんと社会に向けて変化するのが自然です。

 日本人は「同調圧力」の強い民族だと言われています。つまり「みんなに合わせないといけない」という暗黙のプレッシャーが強いのです。このことは集団の統制という目的では良い部分もありますが、個人として生きる上で大きなストレスを受ける要因にもなっています。

 「みんなと同じになりたい。」と悩むとき、その「みんな」とは何でしょう?会社、クラス、親族、地域、友人たち、・・・ごく狭い、限られた世界でしかありません。その狭い世界の他の人たちと異なることが、その人を苦しめるとすると、その人らしさが発揮されるチャンスを潰すことになってしまいます。

 そうは言ってもこの「みんなと同じになりたい」という思いは、「そうじゃないとみんなに見捨てられる。」という不安とワンセットになっているので、なかなか克服できないものです。

 「みんなと同じになりたい」と思う代わりに「誰かのようになりたい」と思いませんか?そんな人物を青年期までに見つけられた人はとても幸せです。もちろん「お父さん」「お母さん」ならば最高ですが、学校の先生や、友人、先輩、恋人、「この人は信頼できる。この人に認められたい。この人のようになりたい。」と心から思える人に出会うことができたならば、その後の人生が大きく変わると思います。

 「みんな」という不特定の対象では、対話することも本当に認められることもありません。そのためにいつもその人の心には不安が残ります。でも長所も短所もある生きた人物と関わり、その人を自分の理想として取り入れようとする体験は、人が大人になる過程でとても重要なものなのです。

 もちろん、理想はある程度の幻滅を伴います。ですがそれでも人がある時期、ある人物を理想とすることは、その後、もっと抽象的な、自分自身の倫理や信念を形成するためにとても大切なものなのです。そしてそのような信念を持つ人は、「みんな」という中身のない存在におびえることなく、逆境でもぶれずに生き抜く力を持っています。

 ですから、多くの人が「みんなと同じになりたい」と願うのではなく、「あの人のようになりたい」と思える人と出会えるといいと、心から祈っています。そして私自身も一人の大人として、カウンセラーとして、そのような思いを向けられることに耐えられる存在であり続けたいと願っています。

 

「生きづらい」「よくわからないけれど生きるのが苦しい」人へ

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カウンセリングで扱う悩みと心療内科、精神科で扱う悩みの一番の違いはどんな点でしょう?

心療内科や精神科では何らかの症状をターゲットにして治療します。たとえば、「摂食障害」「睡眠障害」「不登校」「うつ症状」などです。それらの症状を改善することを目標に、薬物療法や心理療法を適用していきます。

それに比べてカウンセリングは、もちろん最初の症状にも重要な意味があるのですが、症状の身を改善することにあまりこだわりません。けれどこれはカウンセリングではその症状が改善しないという意味ではないのです。むしろ逆に、カウンセリングが進むにつれてほとんどの症状が軽快したり消えていきます。

実はカウンセリングが最も効果的なのは、症状を消すことよりも「よくわからないけれど生きるのが苦しい」という状態に対してです。

私たちの悩みは、実は症状よりも「よくわからない苦しさ」の方が深刻なものではないでしょうか?

そのような苦しさを持つ人は、どうしてもぐるぐると考えてしまいます。「なんでこんなに苦しいんだろう?」「私だけがこんなに苦しんでいる」「これは気のせいでは?」「甘えではないのか?」「私はだめな人間だ」etc. 苦しみながら自分を責め、誰かを責めたくなってしまいます。

この状態はとても辛いものです。症状だけならば、身体の症状と同じように「この症状を消すためにこれを飲もう。」とシンプルに受け止められますが、自分でもわからない苦しさはどう扱ったらいいのでしょう?

このような苦しみの言葉を、さまざまな人から何度も聞いてきて感じるのですが、そのような苦しみを持つ人は、心のどこかでアクセルとブレーキを同時に踏んで動けなくなっている状態のようなものです。

何がアクセルで何がブレーキなのか?どのような思いがその人をその苦しみに踏みとどめているのか?

そこを探るために時間をかけます。なぜ探らないといけないのか?探らなくてもその状態をなくせばいいのではないか?と思うかもしれません。

たしかに、その状態を止めることができればよいので、それだけをターゲットにする心理療法もあります。が、大抵の場合、そのような苦しみの背景にあるのは、子どもの頃からの不幸なつまづきの積み重ねです。

それは無意識に隠れているもので、根がとても深く、その人の性格や生き方と同化してしまっているために、そこだけを取り除くのは困難で苦しいものです。

このような入り組んだ問題の探索に時間がかかるために、精神分析的心理療法はかなり長期間になってしまうのですが、それだけの価値はあります。

それがうまくいった場合、自分で自分の苦しみの理解が深まったと感じるだけでなく、「生まれて初めて自分のことを本当に理解してもらえた。」という深い安心と満足感が生まれます。

アクセルとブレーキを同時に踏む必要もなくなり、ぐるぐると苦しむこともほとんど消え、それが出たときも自分で方向修正できるようになります。

人にはそれぞれ、これまでの人生で生き延びるために保っている生き方の偏りがあるものです。そのような独特の自分の苦しみを、言葉だけでなく感情を伴って他者に理解されたという体験は、その人自身が自分を受け入れる原動力となるものです。


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みんなと同じになりたい

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カウンセリングの中で、「みんなと同じようになりたい(なりたかった)。」という言葉を口にするクライエントの方が、私の体験ではとても多いのです。どの人も、男性も女性も、「みんな」と同じになってみんなの中に入りたい、そうすればうまくいくと切望しているかのようです。

自分はみんなとは違い、みんなのようにはなれない。それは自分が劣っているから、変だから、悪いから、怠けているから・・・。そのような思いを口にされます。

「みんな」って何だろう?なぜそれほど「みんな」と同じになることを切望するのだろう?と考えていたのですが、話を聞いているうちに、「ああ、みんなとは、お母さんのことなんだ。」と、ふと思い当たりました。

この国の多くのお母さんは、子供に対して「優秀じゃなくてもいいから、みんなと同じになってほしい。」と願っているようです。たぶんお母さん自身も「みんなと同じ」が大切だと思い育ったので、我が子が人と違うことで、いじめられたり仲間はずれにされるのでは?という不安があるのでしょう。「そんなことをすると、みんなに笑われるよ。」などと子供の頃に言われたことのない人の方が少ないことでしょう。

けれど子供にとっては、顔のない大勢の「みんな」よりもずっと、お母さんの方が大切です。「お母さん」と同じようになりたい、「お母さん」に好かれて認められるようになりたいと、子供は小さい頃本能的に思うものです。その大切なお母さんが自分に「みんな」と同じであることを求めているとしたら、そして子供がお母さんから「自分」を受け入れてくれていないとどこかで感じているとしたら、子供は「みんな」の一員になれたなら、お母さんに受け入れられると感じるのでしょう。

子供時代の思いというのは、多くの場合忘れられてしまい、後に残るのは、「みんなと同じにならなければならない。」という切迫感だけになってしまいます。それでも自分はみんなと同じだと思いこめるうちはそれでもよいのですが、何かのきっかけで「みんな」から外れてしまったとき、そのような人は安定を崩してしまいます。

そうして相談室に訪れた人たちが、自分が求めているのは「みんな」ではなく、ただ一人大事な人との安定した関係であり、その人からの自分への理解だったのだと分かるまでには、長い時間が必要になります。が、それが頭でなく心から腑に落ちる頃には、いつの間にか自分を大切にする気持ちも回復してゆくものです。

ある人は、終結直前に、「みんななんていないと分かりました。みんな一人一人違うのですね。当たり前のことですが。」と私に言いました。

「みんなと同じになりたい。」と口にする人は、実はお母さん(あるいはそれに代わる大切な養育者)に受け入れられたい、と切望しているのだと、私は今は理解しています。

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男の子の思春期の課題

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思春期、青年期の子供、特に男の子にとって母親との関係は難しいものです。

私は、SCとして多くの生徒、特に不登校や引きこもりになってしまった生徒本人や保護者の方と会ってきました。

そしてまた、成人になって何らかの悩みを抱えて相談に訪れる男性のカウンセリングを続けていてもこれを実感します。

日本では、男性は仕事が忙しく、子育ては伝統的に女性の役割という考えが根付いているために、お父さんと子供が日常的に関わるチャンスがあまりありません。

そのためにどうしても、子供は母親ただ一人との関係が強くなります。

精神分析理論では、「エディプスコンプレックス」という言葉があり、これは幼児期の、男児がお父さんを排除してお母さんを独り占めしたいという無意識の願望のことです。女性では逆に、お父さんを独り占めしてお母さんの地位を奪いたいという願望になります。

エディプスコンプレックスが、なぜ重要になるのかといいますと、大好きなお母さんと結婚するには、お父さんのようにならなくてはいけない、つまり成長して一人前の大人にならなければいけないという前提を子供ながらに受け入れて、大人になって力をつけたい、という動機づけになるからです。つまり、子供が成長してゆく原動力となるからです。

もし、男児がお父さんへの愛着と憧れを持たずにお母さんとの強い絆のみで育ってしまった場合、お母さんと心理的に離れることが難しくなります。お母さんとの間に入ってくるお父さんがいないままならば、男児はお父さんを羨ましく思うことも、お父さんのようになりたいと思うこともなく、大人になりたいとはそれほど思わずに過ぎてしまいます。

それでも、大抵の場合順調に育ってゆき、同じ年齢の子供と遊ぶ楽しさを覚え、集団の中に自分の位置を見出すことに喜びを感じるようになり、母親から自立できてゆくものですが。

男子にとって一番大変な時期は、実は思春期です。

思春期になると性の目覚めとともに、異性である母親から距離を置こうとする気持ちが出てきます。それは生物学的にも自然な感情なのですが、もしこの時期に母親との絆があまりにも強すぎたり、他に頼れる存在の父親や同じ年齢のグループとの関係を見出せない場合、子供としては身の置き所がなくなってしまいます。近すぎる母親への自分自身の愛着に、飲み込まれまいとすると、母親と口を聞かなかったり自室に籠ったりするなど、物理的に距離をおくしか逃げ場がなくなってしまうのです。

こうなってしまった場合、多くのお母さんは、一体息子はどうしてしまったのだろう?と不安になり、息子を問い詰めたり近づこうとしてこじらせてしまいます。

私がお会いするお母さんたちの多くは、息子に「近すぎる」ために、子供が身動きが取れなくなってしまっているように見えます。そういうとき、「お母さん、ちょっと近すぎます。もう少し離れてくださいね。」と、上のような説明をして、できればお父さんや父親的役割を担える人物に関わってもらうようにお勧めしています。

思春期の、特に男性の一番の課題は、「自分の意志で、人生を選べるようになること」だと私は常々考えています。たとえば進路についてでも、たとえ親が勧めた進路であっても、最終的に決めるのは自分、という気持ちがないままに成人になってしまうと、「自分はいったいなんのために生きているのか?」と悩むことになります。

もちろん、まだ未熟ですから、選択を間違えることも多く、親はヒヤヒヤ危なっかしい思いをしたり、つい口を出したりしたくなるものですが、この時期の冒険やトライ&エラーは、男の子が一人の男性になるためのかけがえのない経験です。だから、本当に取り返しのつかないこと、人として許せないこと以外は口を出さずに見守るほうがよいのです。

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子供が親を責める理由

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子供に何か問題があり、過去の出来事や、その時の親の対応について、繰り返し子供に責められて辛い思いをされているお母さん(お父さん)によく出会います。

そのような場合、相談に来られるお母さんは大抵、自分を強く責めて、「自分のせいで子供はこんなことになってしまった。自分は取り返しのつかないことをした。」と自責の念に駆られています。このような親を、子供は決して許してくれないだろう、このような親を持った子供は不幸だ、と考えてしまうのです。

そのような親心は聞いていてとても痛々しいものです。そのような時、私はお伝えします。

「お母さん、お子さんは決してお母さんを心から憎んでそんなことを言っているのではないんですよ。お子さんが伝えようとしているのは、自分がとても辛かった、そのことを、お子さんにとって大切な存在であるお母さんと共有したかったということです。共有できなくてとても悲しかったのだ、という意味なんです。ですからどうか、ご自分を責めないで、お子さんの話の内容に聞き入ってあげてください。そうして、それがお子さんに対してできる、最上のことなんです。」

このような意味のことを伝えています。

大抵の問題は、このように話を聞くことで、ゆっくりと終息してゆきます。なぜならば、子供は心から母親を憎んでいるのではなく、本当は自分の心の痛みを母親と共有することで、一緒にそれを包み込み、その上で自分の痛みの意味を自分自身が受け入れられるようになりたいと願っているからです。

相談室を訪れる方たちは、さまざまな事情から、実の両親とはこのようなやり取りをすることが叶わなかった人たちです。そのため、カウンセラーが代わりにその思いを丁寧に、カウンセラー自身も理解できて共感できるように聞いてゆく必要があるのです。

もちろん、すべてが理解でき、共感できるとはかぎりませんので。「その時のあなたの気持ちは分かるけれど、それでも相手のすべてが(あるいはすべての人が)そうだとは限らないのでは?」などと、本人の固まった思い込みと、第三者から見た見方とのすり合わせが必要な時もあります。このすり合わせは時にはとても辛いものです。

それでも、その人がその時、そのような感情を持ったこと自体は事実ですから、その気持ちはありのまま受け入れます。その人が過去に怒れなかった怒りを怒り、流されなかった涙を流した後に、変化はゆっくりと訪れるものです。

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夢について

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夢分析を受けていたこともあり、夢については関心を持っています。

夢は、とても興味深いものです。頻繁に夢を見て、よく覚えている人もいますが、ほとんど覚えていない人もいます。

また、同じ人でも、印象に残る夢を頻繁にみる時期と、ほとんど夢を覚えていない時期があるものです。

では、どのような時期によく夢を覚えているのでしょうか?大抵の場合、人生での大きな変化のあった時期や、身近な人を失った時期によく夢を見て覚えているものです。しかも、変化のまさにその最中でなく、一息ついた後に見ることが多いのです。

これはなぜかと考えると、夢とは意識に上っていない、あるいは意識から追い出された、無意識と意識の境界線に上がってきた、メッセージのようなものだからです。あるいは、まだ意識に上ってない、自分の気持ちのたまごのようなものでしょう。

それをそのまま忘れて流すか、それとも大切に暖めて孵して育てるか。それによって自分の気持ちも、見る夢も変わってきます。

例えば、夢分析で、自分にとって大切な誰かが死ぬ夢を見るとします。それはどのように考えられるのでしょうか?

フロイト流に言えば、自分が無意識でその人に腹を立てていることを表すのかもしれません。あるいは、その人から自立したい無意識の願望を表しているのかもしれません。

そのようなことを話し合ってゆくと、これまで見えていなかった自分の心の奥の気持ちが少しずつ広がって見えてきて、気が付いたらその気持ちを意識できるようになってきたりします。

また、面白いことに、夢をみるようになると症状がだんだん消えてくるものです。たとえば、死に対する不安が強い人が、自分が死ぬ夢を見たのちに、その不安が徐々に軽減してゆく、などということがよくあります。

さらに面白いのは、夢は意識から注目されると、よく覚えていられるようになるものです。夢分析で夢について語るとそのあとにその疑問に答えるような夢を見たり。まるで意識と夢とが会話をしているように、夢が連続して出てくることもあります。

夢はどうやら、意識よりもはるかに深く広く、自分自身や世界を知っているようなのです。

ただ、残念なことに、最近は夢を素材に持ってくる人は少なくなりました。夢を見て、それに関心を払うのには、時間もエネルギーもいるものです。最近はあまりにも人が忙しくて効率主義に走り、夢を覚えていること自体が難しくなったのではないかと私は考えています。

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