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カウンセリング

精神分析的心理療法の最終目標 

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 心理療法を学び、習得するためには長い時間と訓練が必要なのですが、私自身を振り返ると、初心者のころはまず、カウンセリングの継続に力を入れてきました。

 カウンセリングはある意味で、カウンセラーの人格で仕事をしているような部分があります。クライエントの立場からは、いつも「この人はどこまで信頼できるのか?私のことを考えてくれているのか?」と気になるものです。若かった私は一生懸命でしたが、その一生懸命さは果たしてどこまでクライエントに添ったものだったのか、あるいはクライエントの気持ちからずれた独りよがりのものだったのか、分からなかった部分が多々あったと思います。

 年月が経ち、カウンセリングが継続するようになってからは、目標はクライエントがカウンセリングの中で成長して変容し、生き生きとした人生を生きることができるようになることに変わりました。今でもその目標は変わりがありません。

 ありがたいことに、最近では、長く来ていただくクライエントの方たちのそのような変化を一緒に体験することができ、「卒業」していかれる方たちを見送ることができるようになりました。卒業を迎えることは、カウンセラーとして一番の喜びです。

 私が精神分析的心理療法にこだわる理由は、それが一番人格の深い部分にまで到達して、一番大きな変化をもたらすことが期待できるからです。

 人の中には生き生きとして、生産的で、他の人との関係の中で意味のあるものを築いていこうとする部分と、感じることに抵抗をして、変化を拒否し、繰り返しの世界を生きることを望む部分の両方が存在します。本当は大切な柔らかい感性も、それを理解しようとする他者の存在がなければ、感じることがとても難しいものです。

 後者のような生き方ばかりを人が続けているならば、その人はまるで自分の一部が死んでしまっているように体験するでしょうし、そうでなければ周囲の人が苦しむことになるかもしれません。人生の罠にはまったように感じることもあるでしょう。

 そのような、とてもセンシティブな、人の生のあり方を、私自身のたくさんの経験を通して理解するために、長い年月がかかったのだと思います。

 できるならば、そしていつまでできるのかはわかりませんが(始まりがあれば終わりもあることを認めるのも、生き生きとした生を生きるために大切です)この仕事を通して、人が生き生きとした、生きるに値する人生を歩むことを助けたい、それが今の私の願いです。

カラスに学ぶカウンセリング

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 先日、自宅から外を眺めていると、向かいの建物のベランダに、二羽のカラスが並んでとまっているのを目にしました。二羽で寄り添っている様子から見るとどうやらオスとメスのようです。

 多分オスが後からメスの隣にやってきたのでしょうが、隣り合わせてとまっているのだから、メスの方もオスに対してまんざらではなさそうです。やがてオスの方が積極的にメスに近づいてメスの毛づくろいをし始めると、メスはそっぽを向き、少しだけオスから離れました。私は、「ああ、あのメスは近付かれすぎるのは嫌なんだな。」と思って見ていました。けれど、メスが飛び立つ気配はありません。

どうなるのかな?と興味を持ってその様子を眺めていましたが、オスはメスの毛づくろいを止め、ちょっと離れて、今度はオスの方がそっぽを向いたています。そしてそのうち身体を低くしてまるで眠るときのように休み始めました。オスはなかなかの策士のようです。

すると面白いことに、今度はメスの方がオスの方向に顔を向けてオスを眺めています。オスは身体を低くしてじっとしたままです。まるで「僕は何もしないから、どう触ってもいいよ。」とでもいうような様子です。

これは面白いな、どうなるのかな?と見ていましたが、ちょうどそこに人が近づいてきて、二羽のカラスは飛び立ってしまいました。二羽の関係がどうなってゆくのかが分からずじまいだったことが残念です。この間20分あまりでしょうか。カラスは頭がよいとは聞いていたのですが、その感情の機微がまるで人間のようで驚いたものでした。オスはそのメスを怖がらせないように、ただ近くにいるだけでじっとしていた方が良いことが本能的に分かったのでしょう。

カウンセリングの中でもこういうような現象がよく起こります。カウンセリングで話をすることは自分の悩みや本心をさらけ出すことですので、それまでそのような体験をしたことのない人にとっては不安に感じるものです。もちろん、何が不安に感じるか、どの程度不安に感じるかは千差万別ですが。

カラスのオスがとても賢いなと思ったのは、相手の不安をちゃんとキャッチしたこともありますが、相手の不安を感じた時に、相手と仲良くしたいという自分の気持ちを一旦置いて、受身の立場になって相手にその場の主導権を渡した方がいい、と判断できたことです。そのような判断は人間でもなかなかできないのではないでしょうか?

人は新しく出会うこと、不安に感じたことに対して、それを確かめたいという好奇心があるものです。好奇心と不安との微妙なバランスで、不安よりも好奇心が強い時に、不安に打ち勝って近づくことができるのです。

全く不安のない状況は安心ですが、未知の世界や新しい自分に出会うチャンスもありません。適度の不安と好奇心のバランスが保てる時に、未知の世界に踏み出す勇気が得られます。

カラスに学ぶことは、もし相手に心を開いてもらいたいのならば、相手のその微妙なバランスを保つためにこちらがうまく調節する必要があるということでしょう。

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精神分析的心理療法と転移について 2

 精神分析的心理療法の中で転移がなぜ起こってくるのでしょうか?

精神分析的心理療法では、日常では話さない、心の中の気持ちを長期間カウンセラーに話し続けます。話し続けることによってさらに心の奥にあった気持ちが表面に湧き上がってきます。

心の奥にあった気持ちとは、大部分が、自分が子供のころに体験して自分でもはっきりと言葉にできなかった気持ちです。そうして、それらを話すことによって気持ちが揺れてゆきます。なぜならば、それらは自分でも意識しなかった、あるいは意識したくなかった感情だからです。

その感情を目の前のカウンセラーに映し出すことを「転移」と呼びます。そして、その映し出された感情を治療的に扱うことが、精神分析的心理療法です。

ちなみに、そういった感情は、どんなセラピーでも自然に起こってくるものです。けれどもその人にとって未体験の感情は、まるで液体のように、それを受け止める器がなければ流れていってしまい、なかったものになってしまいます。

たとえば、夢分析ではそれが「夢」という形になって現れ、それを媒体にしてカウンセラーとクライエントが話し合うことで、感情に形を与えます。

また、箱庭療法や絵画療法では、クライエントがその感情を箱庭や絵画で表現することによって、カウンセラーと「その感情」を共有してゆきます。

「転移」では、その感情がカウンセラーに向かうのですが、それが自然に起こってくるとは限りません。特に週に一回、二週に一回などの頻度の面接では、その感情はカウンセラーに向かうことは少なく、多くはカウンセリング外の日常頻繁に接している人に向かいます。この現象を心理用語で「アクティングアウト」と呼びます。

ですから、アクティングアウトはむしろ自然な現象です。「これまでは何とも思わなかったけれど、なぜか最近無性に家族に対して腹が立って、言い争ってしまった。」などという話は臨床場面では本当によく聞きます。

これらは、カウンセリングが進んでいる証拠なのですが、そのままにしておくと周囲の人との関係がまずくなったり、本人が罪悪感を抱いたりと、いろいろと不都合が生じるので、「それはこの間私たちがこんな話をしたからではないでしょうか?」などと、カウンセリングの中に引き戻して、再び考える手助けをします。

正直な話をすると、面接の頻度が頻繁なほど、この「転移」の扱いは楽になります。なぜならば、クライエントの心の中でそれだけカウンセラーの比重が大きくなるからです。頻度が少ないと、クライエント自身に湧き上がってきた感情を留める力が必要ですし、湧き上がる力が大きかったりクライエントが心の中に留めておける力が足りないと、どうしてもそれだけアクティングアウトの確率も大きくなってしまうからです。

つまり、精神分析的心理療法では、転移はむしろ不可欠な現象で、それを治療的に扱えるかどうかにカウンセラーの技量がかかってくるのです。泉のように湧き上がる感情をしっかりと受け止める器としてカウンセラーが機能できることが理想なのですが、それが難しい場合もたくさんあります。

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精神分析的心理療法と転移について

精神分析的心理療法が、ほかの心理療法と比べて長期間になりやすいのは、ほかの心理療法では通常扱わない「転移」という現象を利用することにあります。

「転移」という現象は、精神分析の始祖フロイトが発見したもので、簡単にいうと、分析を受ける人(患者)が分析家に向ける感情すべてを指していいます。フロイトによれば、この転移現象は、過去に患者が自分の大切な人(親等)に向けられた(無意識の)感情が、精神分析のセッションを重ねてゆくうちに次第に分析家に向けられるようになるために起こるといいます。

実は、こういう「転移」現象は、精神分析や精神分析的心理療法だけに現れるものではなく、すべての対人関係に、大なり小なり現れてくるもので、「なんとなく苦手だな」と思う人に対して、実は父親や母親のいやな部分を見ている、というように誰にでもあるものです。

精神分析的心理療法は、この「転移現象」を利用することで、他の心理療法よりもより深い部分からの心の統合を図ります。一般的には転移は、大雑把な区別として「陽性転移」と「陰性転移」に分けられます。つまり「ポジティブな」転移と「ネガティブな」転移という分け方です。

「ポジティブな」という言い方は、最近ではよく使われますから、お分かりでしょうが、「好き」とか「尊敬する」とか「頼れる」など、一般的に好感を持っている感情を指します。反対に「ネガティブな」転移とは、「嫌い」「にくい」「嫌だ」「苦手だ」というような、好感とは反対の感情を指します。

ここで難しいのは、必ずしも「好き」という感情が「ポジティブな」転移感情とは限らないし、逆に「嫌い」という感情がネガティブな転移だけには留まらないことです。たとえば、昔の表現で「いやよいやよも好きのうち」とか、最近の表現では「ツンデレ」という言葉もありますが、人の感情は一概には言えないものです。あるいは、ストーカーやDVなどは、愛情の背後に怒りや憎しみが隠れています。

そういう微妙な気持ちを解きほぐしながら、カウンセリングを続けてゆくためには、セラピストのほうにもかなりの訓練が必要です。なぜならば、セラピストもまた人間である限り、転移感情から逃れられないからです。セラピスト側の転移感情は「逆転移」と呼ばれます。この「転移」「逆転移」という双方の関係は、避けて通れないもので、またセラピーのために生かされなければならないものです。

この「転移」のお話については、精神分析的心理療法の中で最も重要な現象ですので、この先も折に触れて出てくると思います。ただ一つお伝えしたいことは、その気持ちがどのようなものであれ、セラピーに不可欠なものですし、その感情を避けて通らずにそれを体験し、セラピストがともに理解することで、本当の解決につながるということです。

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心理カウンセリングでの話の聞き方

心理カウンセリングの中での話の聞き方について、私なりの考えをちょっと語ります。

心理カウンセリングでの話の聞き方は、普段友人などと話す中で悩みを聞くときとはかなり違います。

どこが違うのか。

友人などと会話するときは、会話に出てくる悩みに、「うん、うん」「それは大変だったね。」などと相槌を打って、時には「私も同じことがあったよ。」とか、「私はこうしたんだけど。」などと話して終わりになるのが普通だと思います。そういう聞き方で、話したほうもある程度すっきりして、気持ちの整理がつくものでしょう。

心理療法(心理カウンセリング)で、私が心掛けることは、ちょっと異なります。もちろん、相手の話に耳を傾けて相槌を打つことはしますが、それだけに留まりません。どこまでその人自身になりきって、話を聞けるかどうかが決め手になるのです。

ただ「自分がその人だったら」という外面的な立場だけでは、足りないのです。その人の感じ方にはその人の過去の歴史や、意識的な、あるいは無意識の信念や、その人独自の感情体験や、時には発達障害などの器質的な特性さえも含まれるのです。ですから、外面的に「私がその人だったら辛いだろうな。」とか、「私がその人だったらそんなことは気にしないのに。」と思ったとしても、それはあくまで「私」というくくりの中の相手ですから、その人が真にその体験をどう感じているか、とは別のものになってしまいます。

たとえば、友人に自分のことを誤解されて陰で悪口を言われていたと知ったとき、人はどう感じるでしょうか?

そんな体験は誰にとっても快くないものです。ですが、ある人はただ「いやだなあ。」と感じるだけかもしれません。が、別の人は、「誤解されるようなことをした自分が悪い。」と自分を責めるかもしれません。さらにある人にとっては、「だから人は信用できないんだ。」と感じて、これからは人に心を開くことはやめよう、と決心するかもしれません。極端になると、それだけで言い知れぬ不安を感じてしまって、外出できなくなる人もいるでしょう。

同じ体験をしても、このように、受け取る側によってさまざまな感じ方があるのです。どのような感じ方であっても、その感じ方をできる限りありのままに受け取り、理解することが、心理療法(心理カウンセリング)の中で大切なのです。

ですから、心理カウンセリングの中では、その人がどんな家族のもとでどう育ったのか、今どういう状態にいるのかを、事細かに聞いてゆきます。よく、精神分析的心理療法は、過去のことにこだわるといわれますが、そうではありません。決して過去にこだわっているわけではないのです。その人が、今そこに存在して体験していることの中には、必然的に過去の出来事、とりわけ幼いころ体験した出来事が含まれているのです。

そうして、その体験をできるかぎり正確に知りたい、理解したいから、さまざまな角度から質問することになります。その人の背景をある程度理解できたと感じた時、初めて、「そのような体験を積み重ねてきたのだったら、そう感じることは自然ですね。大変でしたね。」と、心から言えるのです。逆にいうと、心から言えない場合は、簡単にそう言わず、相手の気持ちをこちらが理解できるまで質問したり相手の言葉に耳を傾け続けます。

基本的に、客観的なアドバイスは、その人の心の中での体験が、こちらにしっかりと伝わってから、必要に応じてします。そうでないとその人にとっては「自分のことを分かってもらっていない。」と感じてしまうからです。

精神分析にはさまざまな理論があります。とても難しいものもありますが、どの理論も実は、患者を深く分かる(理解する)ための手助けとしてあるのです。

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カウンセリングとユーモア

 カウンセリングを続けていくと、これまで症状や辛い気持ちで心がいっぱいで、それについてしか話さなかった方も、会話の中で思わずこちらが「ぷっ」とt吹き出すようなユーモラスなことをいえるように、しばしばなってきます。私はこのユーモアは、とても意味のある大切な要素であると思っています。

ユーモラスな表現ができることや、こちらが笑って突っ込むと一緒に笑えるということは、それだけ自分の状況を客観視できる力がついてきた証拠です。特に、ボーダーラインや強迫神経症の方は、来室された最初のころは、冗談を言える、受け入れる余地すらなくなっている場合が多いのですが、時間をかけて心がほぐれてゆくと、「自分のやっていることや感じていることってちょっとおかしいな。」と気が付く余裕ができてきます。そのあたりでこちらが上手に突っ込むと、笑って認めてくれたりします。もしその時怒り出すのならば、それはまだ突っ込む時期が早すぎたのです。時期がくれば、以前ならば否定したり怒ったことでも、「たしかにそうですね、アハハ」と受け入れられるようになります。

ユーモアは、人の心に隙間をもたらす重要な要素です。これまで信じ切っていた信念や、自分が圧倒されてきた感情から、少しだけ距離を置いて、客観的に自分を見たときに自分自身を「おかしいなあ」と思える能力が育ちます。もちろん、すべてを笑い飛ばして終わってしまうのならば、それもまた一つの防衛ですが、これまでユーモアすら持てなかった人が、自分自身を笑えるようになってきたのならば、進歩した証です。

ユーモアと、皮肉や嘲笑は、似ているけれども別のものです。前者は心に隙間を作り、そこに新しい何かが芽生える可能性をもたらしますが、皮肉や嘲笑は、相手をバラバラにして見下し、それによって自分が優位に立ったり満足感を得る行動です。悲しいことに、インターネットの世界では、ユーモアではなく皮肉や嘲笑があふれていて、人の心を傷つけます。

カウンセリングの中でユーモアをうまく扱うためには、カウンセラーのほうも、時にクライエントの突っ込みに、それが真実をついている場合は、「その通りですね、アハハ」と笑い飛ばせる能力が必要です。あるいは素直に認めることも。

カウンセラーが痛い部分を突かれた時、それを素直に認めて受け入れられるかどうかには、カウンセラーの資質が問われていると思います。言い換えれば、カウンセラーのほうも、常にユーモアにも真実にも開かれた心を持っていることが大切だということです。

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カウンセリングの深さと質

私は現在、スクールカウンセラーと相談室のカウンセラー、二つの立場でカウンセリングを行っています。

学校での臨床と、相談室での臨床は、同じカウンセリングでも求められるものが大きく違います。

学校臨床では、私はカウンセラーとして、同じ学校に月に一度程度しか勤務できないことも往々にあります。生徒にとっては、私がいない時間のほうが圧倒的に長いのです。そうなると、まず求められるのは、私がいない時にも支えられる状況をどう作り上げるか、ということです。

カウンセリングの対象の生徒がある程度健康な場合には、一度だけのカウンセリングでも大きな変化が得られることもまれではありません。あるいは、月に一度のカウンセリングでも十分に支えられる場合もあります。若く健康で、未来があるということは、それだけでも大きな力になるのだな、と感動します。

相談室での臨床でも、もちろん一度のカウンセリングでよい方向に進む人もいらっしゃいますが、多くの方はひとりで長時間悩みを抱え続けて思い余って来室される方ですので、学校のカウンセリングよりも長期間、頻回のカウンセリングが必要になってきます。例えていうなら学校臨床は応急処置、相談室でのカウンセリングは応急処置を越えた治療、あるいは根治療法が期待される心理療法です。

心の健康度の高い人の場合、心の自然治癒力が高いために、応急処置だけでも十分に機能を果たすのです。つかえていた問題を少し取り除けると、再び自然に伸びてゆきます。が、長い間放置してきて悪い状態に固定された心を持つ人にとっては、応急処置のみでは一時的に元気になることはあっても、生涯満足するだけの状態に至ることが難しいのです。それは身体の健康と同じことです。

共感されて悩みを吐き出す、アドバイスを受ける、ということで十分な人もいらっしゃいます。それはそれでよいのです。が、それを越えて、無意識の未知の世界に足を踏み入れ、セラピストとの転移関係を生き抜いて変わってゆく人もいらっしゃる。カウンセリングを受ける人は本当に人それぞれです。そして、どのレベルで満足と思えるのかも、人それぞれで異なります。

私の経験で感じるのですが、若い人はある程度の地点に到達すると、早めに終結する傾向があります。若く未来がある人は、それだけ多くの出会いが期待できるからでしょう。言い換えると、未来の恋人、未来の夫や妻、そして子供との出会いと関係によってその人が大きく変わる可能性を秘めているのです。

未来の伴侶がその人の満たされなかった部分を補うかもしれませんし、子供を育てることによって自分自身の中の子供を育てなおすこともできるかもしれません。それによって十分に満たされた人生を送ることは可能です。言い換えれば、人生そのものが自分が治癒してゆくセラピーになるのです。

けれど、中年を過ぎて新しい出会いに自分を託す余地が少なくなった人、あるいは困難が大きく、出会いに期待できるほどの心の余地を持てない人には、そのままでは自分を解放することが難しいのです。そのような人たちにとって、根治療法にも対応できるカウンセリングが提供できることは非常に大切です。

熟練したセラピストによる精神分析的心理療法は、そのような願いを持つ人に対しても有効な、数少ない技法であると私は信じています。

ただ症状が改善することだけでなく、無意識も含めた人格全体の変容を期待できるのが、精神分析的心理療法です。そのために治療者の訓練期間も長く、治療期間もほかの治療法よりも長めになってしまい、現代社会にはあまり合わないかもしれません。が、そのような治療法が必要な人にそれを提供できるように、常に学び続けることが、私の喜びでもあります。私はそれが「好き」なのです。

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カウンセリングで大切なこと

私は大学院時代からユング派の夢分析を5年ほど受け、その後、フロイト派の2人の分析家から分析とスーパービジョンを受けました。 なぜ変わったのか、それぞれに理由はありますが、一つの学派では物足りないと感じたのが大きな理由です。

ユング派の夢分析のみでは、転移逆転移を扱いきれないというのがフロイト派精神分析を学ぶきっかけだったのですが、それだけでも足りないものを感じ、対象関係論、発達障害、脳と身体、食事などの生活習慣の関係、マインドフルネス瞑想法などの瞑想にまで、その関心は広がり、学んだり自ら実践したりを繰り返しています。

そしてだんだんと理解してきたことは、身体と脳、脳と心、心と魂は相互につながっていて、それらすべてが個人のパーソナリティに影響を及ぼすということです。

もしかすると、その影響は前世までさかのぼるものかもしれませんが、とりあえずまだそこまでは手をのばしておりません。

よい例をあげましょう。
最近、私が仕事をしていて、妙に動悸がしたり頭が重い日が続きました。「更年期のせいかな?」「何かの神経症的症状なのだろうか?」と考えていたのですが、ある日、着ていたセーターの防虫剤の匂いが鼻につき、脱いでみたところ、動悸や頭痛が消えたのです。「これは、防虫剤の過敏反応かも?」と、自宅にある防虫剤をすべて処分したところ、その妙な症状は治まりました。適切な要因にたどり着けなかったら、今でも私はその症状に悩まされていたでしょう。

心理的な問題でも、これと同じようなことはしょっちゅう起こります。
「こだわりが強い」という症状があるとしても、それが、過去の体験から来る心理的な要因の強い強迫神経症だととらえるのと、発達障害的な要因から来ているととらえるのとでは、同じ心理療法でもアプローチの仕方が変わってきます。前者ならば主に精神分析的な心理療法を選びますが、後者の場合、「こだわる」というものはある程度生まれついての特性ですので、それとどのように折り合いをつけるかが中心になってきます。
つまり、治療者の持っている引き出しの多い方が、その人それぞれの特性に合った心理療法ができる可能性が増えるのです。

人の心は本来、カットされたダイアモンドのように、多面的な側面があり、見る方向によって色も変わってきます。それを的確につかむためには、治療者側も、常に自分の知らない部分に開かれていないとついてゆけません。もちろん、基本的には精神分析的心理療法という技法を使っていますが、自分の心の中心はひとつの学派に留まらず、自分自身も常に学び、考え、成長してゆく必要があると思っています。

そしてそれがこの仕事をしてゆく上で、一番難しく、またやりがいのあることなのです。


カウンセリングとは?

ネットの友人から、「傾聴とカウンセリングはどう違うのか?コーチングとの違いは?」という質問を受けました。

そういう疑問を持つ方も多いかと思い、自分なりの言葉で簡単にまとめてみます。

 カウンセリングというのは、ものすごく大きな概念で、とてもよく使われています。美容院で髪型の相談を受けるときにも、歯科医で治療を受けるときにも、「カウンセリング」という言葉を、相談あるいは丁重な説明という意味合いで使うようです。

私たちの仕事は「心理カウンセリング」ですが、現在は、この分野だけでも、数々の技法や理論が林立しています。

「傾聴」という言葉は、読んで字のごとく、耳を傾けて聴くということです。これは、「来談者中心法」と訳される、ロジャースの理論と技法に最初に使われて日本に導入された言葉です。クライエントの言葉に、心から耳を傾けるという意味です。

言葉としては簡単ですが、本当の意味で実践することは、とても難しいものです。

ロジャースはこの「傾聴」と、「受容」「共感的理解」「カウンセラーの自己一致」が大切だと主張しています。

カール・ロジャースはアメリカで、それまでの主流だった精神分析治療に対抗してこの治療法を打ち立て、日本では精神分析学よりも先行して、こちらが主流になりました。

「コーチング」は、ごく最近出てきた技法で、どちらかというと、精神的に健康な人を対象に、その人が、よりよく仕事や生活に適応するための考え方の手助けをする、というものだと思います。

(コーチングに関しては、詳しくありませんので、もし誤りがありましたらご指摘ください。)

説明としてはこのようなものになります。

ロジャースの理論は、そのころの精神分析、寝椅子の後ろに座って質問と解釈を繰り返す治療者像への反発から生まれたといわれていますが、現在のどのようなカウンセリングにも、この「受容」「傾聴」「共感的理解」「カウンセラーの自己一致」は基本的に大切な要素だと私は考えています。

これがないカウンセリングでは、何も始まりません。

すべての心理療法家の基本の部分です。

私の取っている立場は、「精神分析的心理療法」ですが、この技法は、この基本の部分の上に、「転移、逆転移の起こっている過程を理解して、治療的に使えること」「精神発達段階についての見立ての上で、患者(クライエント)を見ることができること」が加わっていると、理解しています。

最後の部分に関しては、また別の機会に詳しくお話したいと思います。

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