精神分析から見た心の三層構造(イド、自我、超自我)

 フロイトは心の構造を「自我」「超自我」「イド(無意識)」の三つに分類しました。

 超自我とは、親や先生、社会の規範を取り入れてできたもの、イドとは性欲を含む欲望、自我とはその二つに折り合いをつける自分の意識・・・フロイトを知っている人ならばよく知っている概念です。

 面白いことに「自我」という言葉は反抗期や思春期の心を表す時にもよく使われます。「自我が芽生える」という表現がありますね。漠然と自我という言葉を使っていますが、自我とはいったいなんでしょうか?なんとなく「自分自身」という印象を持っている人が多いと思います。

 そうです。実際、超自我やイドは「自分自身」ではありません。超自我は「こうあるべき」という圧力のようなもので、イドは欲望、願望です。フロイトのいうような性欲だけでなく、何かをしたいという欲求もここに属します。

 自我はイドや超自我よりも遅れて発達します。赤ちゃんは誰でも欲求に従って泣いたり眠ったりしますが、成長するにしたがって徐々にお母さんの意図を理解するようになり、お母さんの望むような行動を取るようになります。これは生物として生き残るための一種の本能です。そこには「自分はこれを決めた。これをしたい。」という選択はありません。

 ところがだんだん幼児は成長するにしたがって自分の意志に気が付くようになってきます。勧められた食べ物を食べたくない、今は寝たくない、もっと遊んでいたいetc. 自分の意志に気が付くとそれと折り合いをつけないと辛くなります。

 思春期にはこの現象が劇的に起こります。身体の成長と第二次性徴によって身体が子供から大人に変化していくにつれ、リビドーにも劇的な変化が起こります。親の言いなりになりたくない、独立したいという気持ちは生物の本能で、ティーンエイジャーが扱いにくいのは万国共通のようです。

 自我はその時の仲裁者のようなものです。イドと超自我の両方の要請を聞き、適切な方法で解決していくことをその都度決める役割をします。よい仲裁者は両方の主張を聞きながら、うまい解決法を見つけていくものですが、自我も良い仲裁者である必要があります。イドの主張ばかり聞いて超自我を無視したり、超自我の主張ばかり聞いてイドの訴えを無視したりするとさまざまなひずみが発生するからです。

 イドや超自我の内容は生物的な由来や社会的な由来で限定され、そこには個性のようなものはありませんが、自我の仲裁方法はその個人によって千差万別で、一つとして同じものはありません。その中にその人独自の個性が現れます。

 例えば、イドからの願望で「今日学校へ行きたくない。」と感じたとします。めんどくさい、眠い、クラスメイトに会いたくない、いろいろあるでしょう。超自我は「学校をずる休みするなんてとんでもない。」「まじめにいかないとろくでもない人になる。」など、その願望を責めてきます。そんな時、自我がどう折り合いをつけるかはその人の個性です。「一日ぐらいいいか。今日は大切な授業はないし、頭が痛いことにしよう。」「いややっぱり今日は大切な授業があるから出よう。その代り、帰ったらご褒美にゲームを一時間多くやろう。」「自分には目標がある。それを達成するためならこれぐらいのことは我慢できる。」

 自我のさまざまの折り合いや判断によって決定する行動にはその人の個性があり、それは性格となります。

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